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同人ゲームやフリーゲームはもちろん、ゲームデザイナーを目指す人、これからゲームを作りたい人、今もゲームを作っているがなかなかうまくいかない人向けの、ゲーム開発に関するブログ。

カテゴリー「ゲーム制作に行き詰まった時」の記事一覧
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3分ゲーにDな食卓を出した際、この人は本当にゲームをやったんだろうかと思うような感想が寄せられた。公表するとここを読み返すたびに気分が悪くなるので控えるが、ブログでもコメント欄に突然意味の解らない批判を書く人がいる。

 わざとそういう、マスコミのような作為的な引用をして批判しているのかと一時期考えていたが、2chその他でこちらを執拗に批判する人物とたまたま直接話す機会があったので対話を続けてきた結果、どうやら本気でそういう部分しか目に入っていないらしい。文章など頭に入っておらず、非難する材料だけを探し、それを槍玉に上げていただけだった。

 当然の事だがそれに同調する人も全文を読まない。それどころか公表されている一次ソースに当たろうともしない。また、それを指摘されたとしても改めようとはしない。非難することが目的であって、自分の正当性などどうでもよく、ただ対象の気分さえ害することが出来ればそれでいい。その程度の事だった。

 だいたい、本当に相手を批判する場合、直接面と向かって、一対一でやるのが礼儀というものだ。相手に恥をかかせることになるんだから。そういう礼を欠いた行動に楽しみを見出す人種の批判に等気を使う必要は一切ない。

 批判をする側は、いろんな意見を受け入れろと無責任な事を言うが、強い主人公がいい、と言うのと弱い主人公がいい、という矛盾する意見を取り入れた結果中途半端な駄作が出来上がった場合、誰が責任を取るのか。評価を落すのは作った本人で、批判をした相手ではない。

 すべての意見を取り入れることは出来ない。どう転んでも、一部の人間しか相手にできない。一部の人間しか相手にできない以上、どこかでそのターゲットから外れる人はでるし、その人が不満を持つのは仕方ない。その不満に対して気を使って、良い顔をしようとするから、意見にもおかしな部分が出て来る。

 もし、自分自身が間違っていると思った場合は素直に頭を下げるべきだ。だが、そうでないのであれば、無視するか、適当な返事を返す事。そういった心の歪んだ人種の相手を無理にする必要は無い。

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その日の業務は、あるオペラの公演のチラシを作る事だった。リテイクを出され、不本意ながらデザインを変更させられたものだった。研修生の公演であったのもあり、どこで行われる公演で、チケット代がいくらなのか、と言う部分が解るようにしたデザインで、内部での評価は高かったのだが、担当している先生のお気には召さなかったらしい。

 変更点は以下の物だった。まず、出演者の名前を大きくしろ。和風の演目、洋風の演目それぞれで出演者のフォントを統一しろ。会場に関する情報はもっと小さくしろ。

 ……誰のためのチラシなのか、と言う部分で大きな食い違いがあった。先生は出演者のため。筆者は来場されるお客さんのため。とはいえ歯向かう事もできず、渋々新しいデザインを送信した。すると次は出演者の文字をもっと大きくしろとの事だった。即座に修正しなおし、FAXを送り、いいじゃないこれ、これで行きましょうと了承を得る。

 翌日。

 朝一の電話はお怒りの電話だった。

「あなた、なんで出演者の字がこんなに大きいの!」

 お前がそないせぇって言ったんちゃうんかいと半ギレになりつつ、すみません、すぐに直しますんで、と言って、昨日送った修正前の物をFAXする。返ってきた返事は「いいじゃないこれ」だった。

 この当時は一介の社員に過ぎなかったので致し方ない部分ではあるが、出来上がったチラシは自己顕示欲の塊の醜悪な物で、駄作と言わざるを得ない物だった。オペラがなぜ廃れたかの理由を良く表している作成過程と言える。つまり、自分たちのための歌、自分たちのためのチラシ、自分たちのための公演が目的だから廃れたのだ。(今もだが)

 怒られたりクレームが来る事に対して恐怖を抱いていた、と言うのもある。逆らいようのない上下関係、そして自分の失態は他の人にも波及する、という強迫観念のようなものもあった。それゆえに先生の言う事を聞き、自分の作品を曲げてしまったが、これがもし、どこかで対等な立場であれば、強く反論していたと思う。それで仕事が無くなっても構わない。ここでナマイキな事を言うべきなのだ。お互いのために。

 オペラが腐ったのはナマイキな人がおらず、先生を持ち上げ、持ち上げる生徒だけを優遇し、そして何よりも高すぎるチケットノルマという障害のせいで、歌の実力よりも金持ちかどうかで主役が決まってしまう環境。生徒側も先生を選ぶ際、実力よりも主役をしたことが有るという肩書で選んでしまう。ほとんどの人がなぁなぁでやっていた。結果として残ったのは、娯楽は元来商売であると言う当たり前の部分を忘れた人たちだった。
(主役級は300万にやや満たないぐらいのノルマ)

 研修生とはいえ、チケット代を戴き、さらには往復の時間と交通費を使わせたにも関わらずその来場者の側を向かない。チラシ一つとっても、客席よりも自分たちを優先するその姿勢が、恥ずかしいと思わないのかと、ナマイキをいってぶつからなければならなかったのだ。マネージャーだったんだから。マネジメントする対象が儲からないと、マネジメント業は儲からないのだから。

 生意気と失礼は違う。言葉遣いなどで、失礼な事は避けるに越したことはない。だけれども、生意気さは真剣に取り組むからこそ生まれてくる。特に表現者はそのナマイキさをもって、共演者、共同で作業する人、そして観客と世の中に喧嘩を売るのが仕事なのだから、このナマイキを失ってはいけない。

 これを言ったら失礼かな? と思われそうなことは、表現や言葉を探すか、言わないようにするのは正しい。しかし、これ言ったら生意気だと思われるかな? と迷った事は言おう。きっと思っていたよりもいい結果になるはずだ。

ゲームを作る前、こうでなきゃいけない、ああでなきゃいけないと理想のゲーム像のような物は誰しでもあると思う。ただ、それを追いかけると、自分の持っている技術のギャップでいつまでも完成しなくなってしまう。妥協しないのは甘えだ

 下手に前作の評価が良かったりするとなおさらだ。それを超えなきゃいけないと言う心理的なプレッシャーから手が遠くなる。そして評価を高めようと思って色々な勉強を始める。起承転結だったり、登場人物の作り方だったり。それ自体はいいのだが、もっと先にやらなければならないことが有る。

 ゲームを作る事だ。

 バットを振らずしてバッティングのフォームを研究しているのと同じで、振らない限りバッティングのフォームは良くならない。そして、こと創作活動に関しては料理のようなレシピが存在しない。キャベツ、油、フライパン、コンロ、調味料、そういった素材に相当するものはいくらかある。作成ツールだったり、BGMだったり、ゲームバランスだったり。しかし、どのくらいの量で、どのくらい炒めるか、などの料理方法に相当するもの、作品のレシピはまだ開発されていない。

 文章一つにしてもそうだ。3点リーダーの使い方など、小説が育んだ一定の日本語のルールのようなものはある。文法もある。が、前フリを2回やってから3段落目でこのオチだとかの、言ってみれば塩小さじ一杯に相当する、具体的な量などは誰一人として名言していない。

 レシピの無い状態で美味しい料理を作るにはどうしたらいいか。味見を繰り返す事と、いくつも作る事。そして試食してもらって感想をもらう事。もうこれしかない。

 だいたい、世の中にあふれているゲーム作成のノウハウというものは、作品を量産するにあたって行き詰まった時に役に立つものでしかない。2本や3本、普通に生きていれば引き出しは有る。ましてや、もし最初の1本が完成していない状態なのであれば、量産のためのノウハウよりもどうやって完成させるかのやる気の方が何倍も大切なのだ。

 今作っているものが駄作になるのが恰好悪いと思うかもしれない。でも天才でもない限り1本目から名作など有りえない。もしかしたら自分は天才だとどこかで思っているから、駄作が許せないのかもしれない。大丈夫。違うから。天才は自分の作品を駄作になるとは思わない。

 自分自身が凡人である以上、名作を産み出すためにはいくつもの駄作を生み続けなくちゃいけない。そして一本完成させるとその時の経験が、ノウハウ本の読み方に生かされるようになる。作る前に読破した本を完成させた後に読み返すと、見落としていたものをボロボロ発見することになると思う。が、それは完成させないと発見できない物で、同様に、2本目を完成させないとくみ取れない文章がある。

 よって、もし今読み進めている本があるなら一旦それを閉じよう。そして目の前にある駄作を駄作として完成させよう。発表しなければ自分の評価は傷つかない。だから駄作を作る事自体を怖がらないようにしよう。そして、駄作が一本出来上がったら、もう一度頭からその本を読み返そう。同じ本なのに、きっと別の本のように感じるはずだ。

ふと作成途中で、このゲームは何が面白いんだろうと思うことが有る。今作っているRAGAVEの外伝など5,6回書き直している。どういうゲーム内容にするのか、あーでもないこうでもないとこねくりまわしている期間が1年近くあったような気がする。

 そこからようやっと最終形が決定して、作業が進む事になるのだが、きっかけは何だったかというと、一人分のあらすじの完成だった。思い返すと、こちらも制作中だが、女将軍モーゼも同様に、元奴隷を主人公にする事であらすじが固まったし、Dな食卓も、そういう話があって何とか形にできないかなぁと漠然と考えていた。

 なんだかんだ、未完成のシナリオを否定する口ではあるが、なにかしらシナリオが漠然とできたことで作成のモチベーションにつながることが多い。この時、自分の中で働いている心理は、「このシナリオを世に出さないのはもったいない」と言う損の気持ち。だと思う。

 何が作成のモチベーションにつながるかは人によりけりだと思う。例えば、「このシステムを」だったりするかもしれないし、「このジャンルを」だったりするかもしれない。何か核になるものを一つ掴めれば、突き進むのはそれほど難しくは無い。

 逆に、これを掴めないうちはどんどん規模が大きくなっていく傾向があるように思う。RAVAGE外伝はその典型で、新しい事に挑戦しようとする気持ちがあるうちは収拾がつかなくなっていた。それに対して、これを伝えよう、これを見てもらおうと言うゲームの目的が出来上がると、規模の拡大はぱったりと止まる。むしろ縮小する方向に動くぐらいだ。

 シナリオを作るきっかけになったのは従軍慰安婦問題。筆者はもう解決済みの立場の人間だが、それを解決済みなのだからと作品に持ち込もうと思ったわけではない。この問題を調べていくうちに、ある動画に遭遇し、それを反映させたいと考えた。簡単に言うと、従軍慰安婦に対して、「どうせ戦死するから」と有り金全部を預け、そして帰らなくなったお得意さんの話。

 最近やけに涙もろいところもあるのだが、この話で受けた感動は、ちょうど、物語の舞台が島をめぐる戦争で、前作はそういう場所でのお話で合ったということで、作品に持ち込んでみるにはうってつけだった。という事で、作成に対する意欲が一気に沸いてくる。

 振り返るとモーゼにしても作成のきっかけはディスカバリーチャンネルの古代の戦闘史の、将軍モーゼとメタトロンメタトールだったし、筆者のように、自分の書いたシナリオがモチベーションにつながるタイプの人間は、何か感動する機会、という物を複数作った方がいいように思う。

 映画でもいいし、音楽でもいいし、友人関係でもいいし、もちろんゲームでもいい。社会問題でも歴史でも何でもよくて、その中の、感動した一部を共有してもらいたい、共感してもらいたい、伝えたい、体験してもらいたい、そういう作品を作る目的をつかむことが出来れば、制作に対する迷いは吹っ切れるようになるはずだ。

 正直、迷っている時間は3歩進んで4歩下がる事が多い。どのみち無駄な時間になるのであれば、いっそのこと遊びに出た方がいい刺激が得られるかもしれない。意識して外に出れば、同じものであっても見え方が違うはずだ。

「人間の集中力って30分ぐらいしか持てへんねんて」

 高校時代、友人から言われた一言だ。といってもこの発言自体に深い意味は無く、ただ学校の授業という物に対して、50分授業は無意味だと批判したかっただけに過ぎなかったのだろうと思う。そもそも、教師によっては授業中に3割以上が漫画を読み、ほとんどがタオルを枕にして昼寝をしていたような有様だったので、集中力がどうのと言う前に半数以上の生徒が集中していなかった。

 あまりのやる気の無さに、ある教師など3学期の半分以上を自習にし、テスト範囲だけ伝えてそのまま期末テストに突入するぐらいだった。ヤンキーこそいなかったが、さりとて真面目でも無い、学校が自慢できることと言えば新谷かおるの母校と言う程度。当然、新谷かおるがその技術を学んだ学び舎は我が母校ではない。今思うと30分ぐらいの集中力という問題提起に対しては、授業の受け方の態度は自由、という緩い校風が答えだったのではないかとふと思う。

 高校の時には的を外した30分説だが、体感として確かに集中できる時間はそのぐらいだと思う。集中できる時間と言うよりも、集中してしまう時間と言った方がいいかもしれない。30分よりやや短い時間で半端に区切ると、その先が気になって仕方なく、次の30分が持つ。また、30分を超える単純作業は、30分を超えた瞬間一気に疲労が襲ってくる。30分区切りでなにか作業を切り替えていった方が集中力は維持しやすい。ただし、集中力がどれだけ続いたとしてももう一つ、物理的な限界に遭遇する。人間、長時間座るようには出来ていない

 だいたい2時間に一度ぐらいの周期で椅子から離れるようにした方が、体にはいいらしい。上手く離れることが出来た日の晩は、やはり集中しやすい。

 椅子から離れるためには些細な用事を残しておくといい。食事をとるだとか、部屋を掃除するとか、とにかく立つ用事を4つぐらい。食事をとった後の洗い物を次の休憩の時に行うでもいいし、洗濯機のスイッチを押した後、干すのを次の休憩にするでも構わない。とにかく、その日やる立つ作業、歩く作業をまとめてやらないで小分けにしておく。すると、体はもちろんリフレッシュするが、違う刺激が入ってくるためか、脳も元気を取り戻す。

 それと、人前での貧乏ゆすりはたしかに見栄えがよろしくないが、一人の時はやった方がいい。長時間座っていると、足に血液がまわらなくなるので、それを防ぐためと、やはり人間、どこまで行っても動物なので、体を動かすことで脳も元気になるようにできているらしい。本能的な欲求を満たすための自家発電的な行為も恐らく椅子に座ったままだろうから、これを解消するためには大型のオナ……いや、これ以上はやめておこう。まぁとにかく、椅子から離れる機会をなるべく用意したほうがいい、と言う話だ。

 食事の後に洗い物をすぐやらなかったり、貧乏ゆすりしたりというのは、第三者から見ればみっともないと映るだろうが、一人暮らしであれば別に気にすることも無い。それよりも大事なのは疲労を防ぐことだ。洗い物を残すことで、4時間座るところを2時間に分けることが出来る。一旦休憩を挟めば、それだけで体は多少回復する。夏、真ん中に日陰のある通りを歩くのと、最初か最後に日陰のある通りを歩く場合、前者の方が楽なのと全く同じ理屈だ。

  
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自己紹介:
素材屋GYMを運営。
TRPGや同人ゲームなどを制作。
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