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同人ゲームやフリーゲームはもちろん、ゲームデザイナーを目指す人、これからゲームを作りたい人、今もゲームを作っているがなかなかうまくいかない人向けの、ゲーム開発に関するブログ。

カテゴリー「行動経済学とゲームデザイン」の記事一覧
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ぶっちゃけた話ですが、Tウィルスが街中に放り込まれた際、一番やばいのは飼育下にあった犬猫であって走る事もままならない人型のゾンビは大した脅威ではないです。というよりも、その他の方がもっと脅威になります。

 自然界においてヒトが誇れるNo.1の身体能力は、物を遠くに投げる力です。野生下において物を投げられる生き物はほぼおらず、飼育下のサルらが覚える程度でしかありません。しかも、どちらかと言うと遊びでやっている節が強く、狩りのため、攻撃のため、身を守るために物を投げるのは人間しかいません。これは極めて理性的な行動で、本能だけとなると投げると言うのは難しくなるようです。

 走るのは遅く、筋力も大して高くなく、図体は半端に大きく、人間のためにデザインされた都市部は意図しなければ隠れるのも難しい設計です。一番の武器である投擲を失ったとなると、もはや頼みは数しかありません。

 ゾンビ化した人間相手に立てこもる事だけを考えるならば、頑丈な扉をいくつも用意しておけばいいのですが、他のゾンビ化した生き物の相手を想定すると難易度が上がります。通気はもちろん、下水など、建物には色々な穴があります。犬や猫などは、その身軽さで上からくることもあるかもしれません。もっと小さな昆虫などを防ぎきるのは非常に難しい。よって、人よりもその他の生き物の方が、圧倒的に危険性が高いのです。高いのですが、大抵のゾンビゲーは元人間を最初に相手にします。不思議に思いませんか? 実際には大した脅威にはならない相手です。

 もちろん、容量の問題でそんなに敵の種類を出せない、と言う大人の事情があるのも解ります。ですが、人型でなければならない理由は無いはです。例えば主人公をペットの動物にしてもいい訳です。ゲームなんだから。架空の世界で創作されたものなのだから、いくらでも嘘をついても構わない訳です。にもかかわらず、人の形をしたものが数多く敵として登場し、人の形をしたものを操作します。

 もっと極端な例を言えば、ボンバーマンは操作キャラが人型でなくともゲームとしては成立しますし、I.Qの操作キャラも人型でなくともゲームは成立します。アイコンとして解ればいいのですから、別段操作キャラはパックマンでも構わない訳です。レミングスだって、設定上は確かネズミなのだから、人型にして歩かせる必要もないはずです。
(パックマンも後に1頭身の手足の生えたヒトガタになります)

 一方、操作キャラが人型ではないゲームがあります。落ち物パズルゲームです。落ちてくるものが人間であった事は、少なくとも自分が知る範囲では存在しません。別に、テトリスと同じ形をさせた人間が落ちてきても構わないはずです。なのに人型を落下させて条件によってそれらが消滅するゲームはかなりレアな存在なのはなぜでしょう?

 操作キャラが人型でなければならない理由と、落ちて来るブロックが人型であってはならない理由という物がどこかに存在しているはずです。

 この答えについてですが、ほぼ予想はついていると思いますが、例えば人間がブロックと同じポーズをとって落ちて来るテトリスが仮に実在したとします。ブロックの見た目が人間というだけで、ルールは全く同じ。つまり、横一列をそろえると消える訳です。人体が一部を残して。

 ゲームを進めると、頭だけが転がっていたり、胴だけ、胴とお尻だけ、足だけと言った死体を連想させるものが山ほど散在することになります。非常に見た目にきついものがあり、気分が悪くなるでせほう。

 あるいは実際に人が落ちて来るぷよぷよではどうでしょう?。ぷよは上半身と下半身で色の違う服を着た人、という事にします。当然消えた際には上半身か下半身だけが残る人が続出します。テトリスと同様、想像するとやや吐き気を催す情景となります。

 だがしかし。人体が欠損するゲームなど実は山ほど存在します。モータルコンバットを思い浮かべてください。プレイヤーとしてフェイタリティを決めた瞬間、グロ描写はされるが、そのグロ描写と今思い浮かべた二つの情景、どちらの方が気分が悪いでしょう? フェイタリティにはある種の爽快感を味わう一方で、人間ぷよぷよや人間テトリスには不快感が付きまとっています。

 どちらも死体が散在しているという点では全く同じなのに、です。

 両者の違いはただ一つ。

 自分が操作した人型か否か、です。

 自分自身が操作した人型は、プレイヤーにとっては自身の分身にあたります。それを、一部を残して消す、と言う操作を自分自身が行う。心理的にこれは自殺に相当し、一部が散在しているというのは、自殺した時分の死体の欠損をそこかしこに放置し、それを見続けているに等しい行為です。人間テトリスに対する不快感は、こういった生理的要素からくるものと言えるでしょう。

 人間、共感する生き物であり、その共感は大雑把に自身と同じ形状をしたものに向けられます。二足歩行であれば大体自分と同じようなものだと認識してしまいます。そして、それを操作するとなれば、まさに自分自身に降りかかっているものであるかのような錯覚を覚えます。だから、I.Qのプレイヤーシンボルは人型である必然性があります。危機感を出すため、キューブに潰されたり落下したりするという、生命の危機、つまり損を強く認識するためです。

 そしてゾンビゲーは人間の形をしているからこそ、ああなるのかもしれないという恐怖が芽生えます。だから、ヒトのカタチでなければならないのです。リッカーにせよ、ハンターにせよ、ヒトガタを相手にするときは、ゾンビ犬や巨大蜘蛛、ラスボス第三形態や巨大植物を倒す時よりも心理的なプレッシャーがやや強くあります。と言うよりも、ヒトガタ以外を相手にする時はうっとおしいと思う事の方が多いと思います。倒した時の爽快感はゾンビほどはありません。

 人の形をしているからこそ、発揮される効果という物があります。恐らくは連想によるものなのだろうとは思います。そしてこれはゲームに限った話でも無く、例えば藁人形もわざわざ人の形を作っていたり、人形供養で寄せられるものも大半がヒトガタです。供養と言う意味では剥製の方がよっぽど供養してやらなければならないと思うのですが、剥製が供養に出されたという話はあまり聞いたことがありません。逆に人間の剥製というのは、まぁ人体の不思議展ぐらいでしかお目にかからず、それも犯罪者と、一般人であることは滅多にありません。

 ヒトのカタチという物は、非常に大きな心理効果をもたらし、そこに敵だとか、犯罪者だとか、もう人間ではないなどのレッテルが有るからこそ、倒した時の爽快感が増加され、操作するからこそその身に降りかかる損を自分自身と照らし合わせてしまう、そういう効果を持ちます。

 だから、ゾンビはヒトガタだし、テトリスはブロックだし、救う対象であるレミングスはヒトガタで、操作対象のI.Qはヒトガタなのです。

 という事は、もし今作っているゲームで何かインパクトが足りないようであれば、それはもしかすると、ヒトガタ不足なのかもしれません。何か操作する対象や敵をヒトガタにしてみれば面白さが増える、かも知れないので試してみてください。
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アクションゲームやRPG、パズルゲームでもなんでもいいのですが、操作ミスによってゲームオーバーは解るのですが、紙芝居のアドベンチャーゲームでバッドエンディングは必要なのでしょうか? 無くてもいいんじゃないか? なぜゲームでまで不愉快な思いをしなくてはいけないのだろうか? そう思ったこと無いでしょうか?

 例えば、選択肢のミスで仲間が酷い目に合ってしまう。あるいはヒロインが酷い目に合ってしまう。くっ殺せから始まる酷い事をされる展開になることもあるかもしれません。エロ同人みたいに!(まぁ、エロ同人とかエロゲーの場合は、そもそも内容がそう言うものなのですが) 結果として訪れるバッドエンド。

 このエンディングはいるのか、いらないのか? と考えたことは……実はプレイヤー側であったころにはそんなに無かったはずです。思い返してみて下さい。いつからバッドエンドを避けるようになったか。作るようになってから、じゃないでしょうか? 自分の作品でバッドエンドを作るのを避けてたりしませんか?

 プレイヤー側だった頃、バッドエンドは悔しかったがここを回避しよう、となってそれほど不愉快ではなかったはずです。でも作り手側に回ると、もしかしてユーザーに不愉快な思いをさせないだろうか、と言うブレーキが働き、このバッドエンドを避けようとしてしまいます。


 プレイヤーの頃の自分を忘れてしまってはダメです。広井王子は、ゲーム作りで大切な事は何かと問われてこう答えました

「いつもお客様だったころの自分っていうのを持っていることですかね」
「何に喜んで、何に感動してたかっていうのが無くなると、そろばんだけになっちゃって訳わかんなくなるんですよね」

 バッドエンドを見たとき、次回はここを避けようとして選択肢を色々と試したはずです。それこそ既読スキップを利用して。エロゲーのエロシーンをもスキップして。その時自分が試していたことと言うのは、選択肢を試すゲーム、予想するゲームになっていたんです。つまり、バッドエンドがあったからそれを回避する手段を探そうとした。……損を回避しようとして面白さを新たに見出していたのです

 よって、何かしらのバッドエンドは用意するべきです。できれば複数の種類あるといいでしょう。バッドエンドを用意することで、本編がより一層面白くなるはずです。

ゲームに飽きると言うのは誰にでもある経験だと思います。不思議な話で、ゲームの飽き、と言うのは突然襲ってきます。遊んでいたゲームが、突然つまらなく感じてしまう。そうなると、昨日どころかほんの一時間、30分、1分前の同じ内容でさえ嫌気がさしてしまいます。

 ところが、これもまた不思議な話なのですが、時間をおいてから久しぶり同じゲームをやり直して飽きたポイントに差し掛かると、不思議と飽きていない事が多々としてあります。飽きるとは何なのでしょう?

 これはもう、このブログのテーマそのものでもあります。人は損に動かされる。つまり、飽きるのはその作業、そのプレイが時間の損だと認識しているからです。

 面白さを認識できないとき、と言うのは大まかに分けると以下の2つの状態になっています。一つは損が発生していない。もう一つは損から抜けれる気がしていない。それまで面白いと感じていたゲームが突然面白くなくなる瞬間というのは、後者を実感してしまう時です。つまらないと感じる瞬間は、行き詰った時だと言ってもいいでしょう。

 レベル上げの作業は特にこの飽きる状態を作りやすいものです。作業状態となるとたいていの場合、弱めの敵を相手に、大量に戦う。つまり、損をあまりしない状態で、延々とプレイを続ける事になります。あと何回戦えばいいのかを逆算した時に、数の多さに嫌気がさし飽きてしまう。レベル上げ以外に解決の方法が思いつかないとなると、苦痛であるレベルアップ作業が損で、損を回避できない状況だから面白さを見いだせなくなってしまいます。

 ソシャゲーではゲームデザインにおいて根本的にこの問題を抱えています。課金を優遇し、無課金では絶対に乗り越えられない壁のようなものが徐々に出来上がっていきます。無課金組が課金組に対して絶対に勝てない状況を見出した瞬間、人は大量に離れていきます。このゲームを続けることが損だと感じ、それを避けるために他のゲームで回避できる損を探しに行ってしまうのです。

 無課金で課金に勝てないと感じるとユーザーが離れる。これはサービス終了の兆候です。何故なら次に微課金が抜け、さらに次に課金が抜けると言った具合に課金金額の低いものから順々にやめていくからです。そしてここからが肝になりますが、ギルドなどのあるソシャゲーの場合、人を引き付ける面白いギルドマスターなどが必ず存在し、そしてその人物は必ずしも重課金ではありません。つまり、人を引き付けていた人物が抜けた場合、課金金額の大小にかかわらずまとめて辞めてしいます。

 よって、ソシャゲーで長くサービスを継続させるためには、マメなログインで無課金が課金に勝てる、勝てそう、そういう調整を運営側はイベント等で行っていかなければなりません。もしくは、DMMのアサギ(カオスアリーナ)のように開き直って「重課金でも難しい」という非難轟轟の道を歩むのも有りかもしれません。
良いゲームは多くの場合、損を段階的に用意しています。ただただ一つの損になるのではなく、それが酷くなるとより大きな損をする、といった具合の仕組みです。この段階的な損の中でも最もオーソドックスなものは残機という概念で、残機は頑張れば増やせるが無くなってしまうとゲームオーバーという損が発生します。

 例えばアイギスの場合、敵の移動距離が損として機能していると書きましたが、これは敵を撃破するたびにリカバリー出来る損でもあります。致命的なものはこの残り距離が0になった時。ライフが一つ減る、という形で課金しても取り返せない損が発生します。

 同じように各ユニットに設定されたHPは、ヒーラーによってリカバリーの利く損でありますが、回復が間に合わなかった場合、撤退と言う形で損が発生します。自分の手で撤退させた場合であっても、一度出撃させたユニットは再配置できないという損が発生しますが、それ以上に撃破されてしまうとクリアのボーナスが一つ下がってしまいます。

 撃破された場合、ライフが一つ減った場合、それぞれ☆を一つ失います。クリアで一つ、被害ゼロでひとつ、敵の全滅で一つ、合計3つの☆を一回の攻略で手に入れる事で課金通貨が手に入るため、これは大きな損として機能します。

 他のゲームで言えば、例えば俺の屍を超えて行けではHPが削れた状態でダメージを受けると寿命が減るという大きな損があります。これはロマサガでもLPというシステムで存在していました。ウィザードリィではおなじみの呪文を唱える寺院にて、一定確率で復活に失敗し完全なロストを起こすこともあります。これは運が絡むが、何度死んでも大丈夫というものではないため、プレイヤーはこの損を大きく避けようとします。艦これの場合は大破で戦わせるとロストの危険性が高まるという損があります。

 だいたい、どのゲームもこの段階的な損を3段階に分けて用意しています。これは人間心理によるもので、それより段階を増やすと人間は複雑さ覚えるようになるためです。比較的取り返しの利く損、取り返すのがかなり難しい損、絶対取り返せない損。この3段階を意識して盛り込めば、作成中のゲームはきっと面白くなるはずです。
キャラロストという損がより強く前面に出てきた名作として、プレイステーションで発売された俺の屍を超えて行けが挙げられます。一族運営という内容ですが、長くても4年ほどの寿命で、どうあがいても死んでしまうという回避できない損が常に横たわっていました。
  
プロフィール
HN:
色々ありすぎでどれを名乗ろうか
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性別:
男性
自己紹介:
素材屋GY.Materialsを運営。
TRPGや同人ゲームなどを制作。イベントプロデュース等。
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